原町散歩 第2回 十月のお散歩

新宿の「箱根山」 (東京都新宿区戸山2丁目)

当社から西へ800メートルほどにある戸山公園は、新宿区でも指折りの桜の名所。戸山ハイツと呼ばれる高層住宅群と国際医療センターを中心にした医療研究機関や福祉施設に囲まれた緑深い公園です。その公園の中心に聳えるのが通称「箱根山」。標高44.6メートルと、山の手線内最高峰を誇っています。

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なぜ新宿に「箱根山」? 江戸時代、この辺りは尾張藩下屋敷のあったところです。さすが尾張徳川家だけあって、13万6000坪、およそ900m×500mに及ぶ広大な敷地に小石川後楽園と並ぶ見事な回遊式の大名庭園が営まれ、戸山山荘とも称されていました。大きな池や築山、森や滝、せせらぎ、橋、東屋など深山幽谷を思わせるさまが、谷文晁の戸山山荘図(重文)に描かれています。文晁が寛政十年(1798)の九月、尾張大納言宗睦に招かれたときの作と推測されています。また十一代将軍家斉や十二代将軍家慶が戸山山荘に遊んだ記録も残っています。

大庭園の一画には宿場町を模した町並みも作られました。200mを超える街道筋に30軒あまりの町家が立ち並び、いろいろな招待客を招いて、商家で買い物をしたり酒屋で食事をしたりと、武士たちが「町民ごっこ」をして楽しんでいたそうです。その宿場町は東海道五十三次の九番目、小田原宿を模したものだったといいます。大きな築山は、元々は「玉圓峰」あるいは「麿呂ヶ嶽」と名づけられていたのですが、それを小田原宿のそばの名山に見立てて、いつしか「箱根山」と呼ぶようになったのではと思われます。戸山山荘というのは今で言うテーマパークのような趣のところだったのではないでしょうか。宮仕えの堅苦しい日常から逃避し気楽な町民の真似をして遊ぶことが、ひとときの憂さ晴らしになったのでしょう。将軍に仕える高級武士たちにとってのオアシスだったのかも知れませんね。

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戸山山荘は何度かの風水害で江戸時代後半にはすっかり寂れ、幕末には主な建物が焼けてしまいました。明治時代になると広大な敷地を利用して、陸軍の演習場や兵学校、病院などが置かれる軍事用地になります。そして敗戦後の住宅難の時代に戸山ハイツが建てられ、その後、公園として今の姿に整備されていきました。3月11日の震災で「登山道」の一部が崩落しましたが、今はそれも修復され、まもなく紅葉の季節を迎えます。

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Y. O.