2005年5月のコラム

情報の形 あるいは言語情報処理の限界

人間は、言語を用いることによって合理的な思考を行うことができ
ると考えられています。環境から情報を取得し、蓄積し、分析し、
統合し、最終的に意思決定するまでの段階で、言語が重要な役割を
担っていることは論を待ちません。情報の言語化あるいは数値化が
高度な情報処理を可能性にしているわけです。言語がなければ人間
的な思考ができないといっても過言では有りません。

しかし、このことは、言語がなければ高度な情報処理ができないこ
とを証明しているわけではありません。たとえば鳥の渡りを考えて
みましょう。いつごろ、どこに向かって出発するかという大枠は脳
に組み込まれたプログラムで決まっているとしても、出発地や経路
の気象条件、外敵の出現、自身の体調、最終的な営巣地の決定など、
時々の環境の変化にうまく対応するためには、脳内で膨大な情報処
理が行われていることが予想されます。人間以外の動物では、言語
化、数値化された情報の分析や統合の過程を前提とすることはでき
ないので、何か別の形で情報を保持し、適切な情報処理を行ってい
るものと思われます。情報の細分化、類似情報の統合と識別、単位
となる情報相互の関連性を保持しリアルタイムに更新していく情報
経路などなど。そのような「情報の形」がどのように意識されてい
るのかという問題もありますが、少なくとも言語によってラベル付
けされた情報に依存してはいない可能性が高いのではないでしょう
か。

動物の脳が進化の過程で言語を獲得し、そのことによって人間の思
考能力が爆発的に進歩したことは疑いもない事実です。しかし、脳
の高度な情報処理過程が、言語あるいは言語化された情報によって
のみ担われている、と決めてしまう必然性はないのではないでしょ
うか。動物が本能的に行動しているように見えても、紛れもなく、
環境から情報を取り入れ、それを処理した上で行動を決定している
のです。そうであれば、人間の脳の情報処理においても、言語化さ
れた情報に基づく処理過程のその奥に、動物本来の脳の情報処理機
能、あるいは情報処理過程が隠されていると考えるのが、むしろ自
然に思われます。

コンピュータによる自然言語処理は、長足の進歩を遂げているので
すが、やはりどこか、胡散臭いことをしているような、本物でない
ような思いが拭えないのは、人間が考えて行動するその様式とは別
世界の出来事のように思えるからではないでしょうか。脳の近似と
してコンピュータを捉えることが、現代の科学技術の進歩を支えて
います。しかし、この近似は、強力ではあるがかなり大雑把なもの
であって、漸近線のように限りなく脳の情報処理に近づくものでは
ないのかもしれません。

そういえば、脳の言語依存的な領域が毀損されても、数学的な能力
が損なわれない事例がたくさんあるそうです(「日経サイエンス」
2005/08)。「125から17を引いた数」という質問には何の反応も示
さない患者が、「125 – 17」という式を見せると、即座に「108」と
答えるといったことのようです。もちろん、「125
– 17」という式
が理解できるまでには、情報を数値化したり、また数学的能力を身
につけるにあたって、言語能力が必須だったには違いありません。
しかし脳には、言語でラベル付けされた情報ではない情報の持ち方
があることを示唆しているのではないでしょうか。

人間が脳を使って考える以上、原理的に脳そのものを理解すること
はできないのだと主張する人々もあります。個人的には少々過激な
論のように思えますが、言語によって細分化された情報のみを用い
て、人間の思考過程をコンピュータでシミュレートする方法、すな
わちノイマン型コンピュータの方式とそれに見合った(扱いやすい)
情報の形には、遠からず、自然言語処理上の限界が見えてくるよう
に思われます。脳の生理学を基礎においた、認知、記憶、学習とい
った研究の進展が望まれます。

2005.05

文責:秋狂堂