ドイツの思い出:シュトレン

初めてのドイツのクリスマスを私はシュタウフェン(Staufen)という小さな町で過ごした。ドイツの通貨がまだマルクだった頃の話。

ドイツの大学で勉強をするために、ゲーテ・インスティテュート(Goethe-Institut)を通じて語学留学ビザを取得し、南回りのクアラルンプール経由で渡欧。知人が既にドイツ語を勉強していたシュタウフェンにはスイスのチューリッヒからフライブルクへ電車で移動、フライブルクからは単線のローカル電車に乗り換えて入った。東京生まれのあちこち育ちの私には、シュタウフェンは街ではなく、限りなく村に近い町だった。

ゲーテ・インスティテュートのドイツ語コースに通う生徒は学生寮、または近隣のドイツ人の家にホームステイや間借りをする。私の知人が間借りしているところはとても親切な方のお家だった。学生寮ではなく、私はいきなりドイツ人のお家で生活することにした。

ホームステイではなく、間借りというのは家主さんとも適当な距離を置ける。私の知人の部屋は1階にあり、間借り人の共有スペース(キッチン・シャワー・洗面台・洗濯機)がすべて1階にあった。2階は家主さんの専用スペース。私の部屋は3階の家主さんの息子さんがもともとは使っていた部屋だった。窓を開けるとシュタウフェンの教会が見えた。最初はわぁーっとドイツに来たという実感が湧いたが、教会の鐘の音は毎日決まった時間に鳴る。時計はいらないが、週末の朝寝坊やお昼寝には不向きなロケーションだった。

留学生に部屋を貸している家庭は年金暮らしの方が多い。子供を育て上げ、独立した子供の部屋を貸す。もちろん家賃も毎月入っていただろうが、言葉も通じない外国人を家に入れるのは毎回ドキドキしたことだろう。私のように知人が紹介してくれたケースは家主さんにとっても安心だったのか、息子さんのお部屋を使わせてもらえた。1階の部屋よりもずっとキレイで、暖かく、よく羨ましがられた。

この家主さんのところにはすでに何十人もの語学学校の生徒が間借りをしていた。最初に見せてもらったのは、ここで暮らした人達がここを出るときに家主さんに贈る言葉を書いていったサイン帳だった。分厚いサイン帳には色々な写真やカードや絵と一緒にDankeの文字がいっぱい書かれていた。これを最初に見せてもらい、とても安心したのを今でもよく覚えている。

家主さんは毎月1度、部屋を借りている私たち全員を2階に招待し、コーヒーと手作りのケーキをご馳走してくれた。初めてのお呼ばれの前に知人から、今日はお呼ばれだから、お昼は食べない方がいいよと言われた。その時理由はさっぱりわからなかったが、とりあえずその通りに昼は食べず、直前に知人に「『おいしい』ってドイツ語でなんて言うの?」と聞くのが精一杯なほど緊張していた。直前に教わった「おいしい」のドイツ語を呪文のように唱えながら1階の共有キッチンから2階に皆(私を含めて3人)で上がっていった。

テーブルにはすでにケーキとコーヒーが4人分セットされ、家主さんがニコニコと出迎えてくれた。そのときご馳走になったのがシュトレンだった。何でも手作りの家主さんなので、もちろん手作りだった。今思い返すとかなり贅沢な経験をしたものだ。

シュトレンを人生で初めて食べた印象は、ミックス・ドライ・フルーツ入りの硬いパンみたいなものだった。「アルプスの少女」のクララのように、白パンしか食べていなかった当時の私には、シュトレンは相当に硬いお菓子だった。お口の中で懸命に頑張っている私に家主さんはニコニコして何やら話しかけてくれた。恐らく「このお菓子はどう?気に入った?」的なことを聞いてくださったのだろう。私は何とか口に入れたシュトレンを咀嚼し飲み込み、唯一のこの場に相応しい表現「おいしい」をドイツ語で言った。ちゃんと通じたらしく、家主さんの顔がぱぁーっと明るくなって、ますます笑顔になり、色々話しかけてくださったがさっぱりわからなかった。

ドイツ語のできる他2人は家主さんとあれこれおしゃべりをして楽しそうにコミュニケーションをしていた。私はといえば、笑顔(アルカイック・スマイル)で食べ続け、おいしいと言い続けることしかできなかった。何とか私ともコミュニケーションを取りたいと家主さんも思ってくださったのか、私がシュトレンを一切れ食べ終わると、「もう一切れどう?」というようなことを質問してくださった。私はもちろん笑顔でうなずき、よそってもらった。その度に家主さんがニコニコしてくださるので、わんこそばのようにシュトレンを私はあのとき2時間に渡り食べ続けた。

お茶会が終わり、頭の中はドイツ語で、お腹の中はシュトレンでいっぱい、いっぱいな私が知人に訊いたのは「『お腹いっぱい』ってドイツ語でなんて言うの?」だった。