田中さんの不思議

最近うっすらと興味があるのは呼びかけ語。文字通り、人に話しかけるときの呼びかけだ。例えば、遠くにいる「田中さん」を呼ぶとき、意図的に発音やリズムを変えないニュートラルな状態では「タナカサーン!」にならないだろうか。「サン」を「サーン」と伸ばしているが、このとき伸ばす位置というのは決まっていて、節をつけないニュートラルな呼び方では、「ターナカサン!」や「タナカーサン!」や「タナカサンー!」にはならない。丁度、病院で診察室から隣の待合室の患者が呼ばれる場面を思い浮かべていただくとよいだろう。呼び捨てのときも、自然な状態では「タナカー!」になるはずだ。「タナーカ!」や「ターナカ!」にはならない。最初や途中の母音も伸びることはあるが常にではなく、一方最後の母音は高確率で伸ばされる。「ンー」は大声だと負荷が大きいので母音が優先される。音を伸ばすのは遠くの相手に聞こえやすくするためだと思うが、なぜどこを伸ばすかが決まっているのだろうか。

普通、人が言葉を発するときは息を吐き出していくので、一度息を吸ったら声を出すうちに肺の中の空気が減って、声そのものもだんだん小さく低くなっていく。ということは、勢いよく息を吐きながら最後の母音を伸ばすとき、体には結構な負荷がかかっているはずだ。そこまでしてでも、伸ばすのが最後の母音でなければならない何らかの理由があるらしい。そうでないなら、肺の空気が満タンのうちに母音を伸ばして、「ターナカサン!」と叫ぶのが一番聞こえやすいはずだ。呼びかける相手が「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のような肺活量を試される名前だった場合はなおさら。

しかし、「ターナカサン!」の「ター」が聞こえてきても最後まで聞かないとそれが「田中さん」だということは分からないし、声を出すと後になるほど声が小さく低くなっていくということは、後になるほど相手に声が届きにくくなるということだ。つまりは、肺の空気量に余裕があって相手に聞こえやすいうちに最後以外の部分を全部言ってしまおうということなのだろう。「アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコトー!」と一息で言えるのかはさておき。

T.K.

挿絵:インターン生 S.N.