自動幻画

職場の保険局では、優秀でまじめな、しがない職員。家では、理解し合えない高圧的な父親との関係に悩みつつ、家族思いで従順な一家の稼ぎ頭。一日の仕事を終えて、短い仮眠と家族との夕食を済ませると、「書くこと」を通して孤独や不安と、人生と向きあったフランツ・カフカ。彼のことはてっきり「書く」という手法一辺倒の作家だと思っていたのですが、実は当時最新のテクノロジーにも、高い関心を持っていたのだという事実を知りました。

ヴィム・ヴェンダース監督作『さすらい』で主役を演じた俳優でもあるハンス・ツィシュラーが著した『カフカ、映画に行く』という本に、カフカが機械仕掛けのキネマトグラフに親しんでいた時期のことが詳しく書かれています。

カフカが執筆活動を行っていた20世紀の初頭に、物語構成をもつ大衆の娯楽としての映画産業は生まれました。トーキー(音入り映画)が生まれるのが1920年代で、カフカは1924年に亡くなっていますので、彼が観ていた映画というのはサイレント映画、日本風に言うならば活動写真です。ツィシュラーがばらばらの小さな記述のかけらを手がかりに、調査し特定していったいくつかの作品が、本書では紹介されています。残念ながら、フィルムの一部や証言などがわずかに残るばかりで、当時彼が観ていた作品のほとんどは現存していません。まだ映画が高尚な芸術の一形式という風には認められていなかった頃の話ですから、すでに浸透していてわかりやすいものが「動く写真」で観られる、というのが広く大衆に受け入れられるために必要な題材だったのでしょう。キリスト生誕の物語、モーセのエジプト脱出の顛末、紋切り型のメロドラマ…カフカの観ていたものも、その例外ではありませんでした。

しかし、音のない「動く写真」は、単にわたしたちが目で見るそのままの現実世界を大きな平面に再現するというだけのものだったでしょうか。写真と異なり、それ自体が内部に動きをもつ映画からカフカが受け取ったのは、観る者を自動装置の一部と化し感覚を混乱させる「安らぎのなさ」でした。

写真を秒間16コマで連続投影して「生きた」ものにみせるこの技術の誕生は、作家カフカに少なからぬ動揺を与えたようです。そのひとつは、生きることがすなわち「書く」行為であったと言っても過言ではないカフカが、「中毒者のように書くことに身を委ねた」後に、「唯一の解毒剤」となったのが映画だということ。「書くこと」から自らを引き剥がし、意識を失うほどの孤独を求めて映画館を訪れたと、彼の日記や手紙には記されています。

ツィシュラーは、恋人フェリーツェへカフカが送った手紙や日記を時代順に追うことで彼の人生と映画とのつながりを浮き彫りにします。フェリーツェに婚約を申し込む直前の手紙では彼女を映画の映写幕に見立てた愛情表現なども行っています。彼女の上に、自らを映写したいという欲望。「動かされ、それ自体でも動きを内包している映像」のように、自分自身をフェリーツェの上に「固着させたかった」。

カフカにとって日記は「書かないことには耐えられない」ものでしたが、婚約を申し込む直前の6ヶ月間、彼は奇妙なことに、日記を中断しました。代わりに彼女に向かって、手紙の代わりに日記を送ってもよいかと尋ねます。そしてその間にこそ、彼はもっとも映画に親しんだだろうと、ツィシュラーは想像しているようです。ほとんど毎日のように手紙をフェリーツェに送り、彼女との結婚というものを考えていたこの時期の彼は、必ずしもただ幸福であったというわけではなかったのだろうと思います。フェリーツェに自らを投影するという欲望の中で膨らんでいった結婚へのあこがれは、何かの反動か、賭けのようなものではないでしょうか。それはつぎのメモに、端的に示されています。「映画館へ行った。泣いた…(一部省略)途方もない楽しさ…僕はまったく空虚で意味のない存在だ。横を走りすぎてゆく電車のほうが、はるかに多くの生き生きとした意味を持っている」

この直後に彼はフェリーツェへ婚約を申し込み、承諾されるも、まもなく自らそれを破棄したのでした。なぜそのようなことをしたのか、真相は誰にも知りえませんが、映写幕に定着することの出来ない人物像を信じる勇気が、カフカにはなかったのかもしれません。彼が「イメージ」よりも、「言葉」に根ざす彼独自の表現技法を『審判』や『城』といった作品に結実させるのは、こののちのことです。

参考文献:『カフカ、映画に行く』 ハンス・ツィシュラー著 瀬川裕司訳 みすず書房 1996年

M. A.