夏目坂(新宿区馬場下町~喜久井町~原町~若松町)
書を読むや 躍るや猫の 春一日(『吾輩は猫である』より)
お正月、絵葉書の猫の絵と俳句を前に、「迂闊な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首を捻って、はてな今年は猫の年かなと独言を言った」とか。一方、吾輩は「新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。」といささか自慢の体。
早稲田馬場下町から当社の前を通り若松町にだらだらと上る坂道が通称夏目坂。丘陵地の下を走る早稲田通りと尾根筋を辿る大久保通りを結ぶ、700メートル弱、標高差約16メートルの坂道です。坂のほぼ真ん中、くの字に曲がる辺りが喜久井町。明治の文豪、夏目漱石は1876年(慶応3)1月5日(旧暦)この喜久井町一番地(元牛込馬場下横町)に生まれました。夏目家は江戸開府以前より牛込の郷士としてこの地に住み、元禄期以降、代々名主を務めていたようで、明治になって新しい町名をつけるとき、夏目家の井桁に菊花をあしらった家紋に因んで、喜久井町と名づけたと伝えられています。1966年(昭和41)、漱石生誕100周年を記念して坂の上り口に建てられた「夏目漱石誕生の地」の碑には坂の名の由来とともに、『硝子戸の中』で漱石がこの地に付いて詳述している旨が記されています。
1907年(明治40)9月、教職を辞した漱石は新宿区早稲田南町7、生誕の地から400メートルほど東に居を構えます。自宅兼仕事場は漱石山房と称され、森鴎外、鈴木三重吉、寺田寅彦、久米正雄、芥川龍之介、安部能成、小宮豊隆など明治期を画する文人や学者の集うサロンとなりました。丘陵地から谷あいの外苑東通りに下りていく地形は起伏に富み、「山房」と呼ぶにふさわしい雰囲気だったと思われます。漱石はこの山房で、『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『こゝろ』『明暗』など数々の名作を誕生させましたが、1916年(大正5)12月9日、50歳を目前にしてこの地で亡くなりました。居宅は戦災に遭ってしまいましたが跡地は漱石公園として残され、近年には旧宅ベランダの復元、また復刻本などを集めた小展示室が設けられるなど整備が進められています。
さて、「吾輩は猫である」のモデルであった猫は「名前はまだ無い」まま、1908年(明治41)9月13日、物置の竈(へっつい)の上で死んだとされています。その13回忌である1921年(大正10)9月に漱石の遺族が石を塔状に積み上げた供養塔、通称「猫塚」を建てました。この塔は残念なことに住宅ともども戦災で消失してしまいましたが、戦後になって復元され、今も公園内に残されています。