早稲田大学喜久井町キャンパス(新宿区早稲田南町)
咲き始めたと思ったら、春の嵐も重なって、あっという間に桜の季節が終わってしまいましたが、大学は入学の季節。どこも幾分華やいだ雰囲気に包まれているのではないでしょうか。
夏目坂を早稲田方面に下っていった東側に、木立に囲まれた早稲田大学理工学研究所、通称喜久井町キャンパスがあります。モダンな研究棟に接して一昔前の国立大学を思わせる古びた感じの建物も残っていて、「あの早稲田大学」とは思えない雰囲気です。1940(昭和15)年に創設された理工学研究所は、旧旭硝子の跡地約1900坪に作られました。1990年代以降、理工学関係の主力施設は大久保の西早稲田キャンパスに設置されるようになり、現在は耐震構造研究館や核物理実験室などいくつかの建物とスポーツ施設やゲストハウスが残るのみですが、静かな佇まいで出入りも自由なことから、夏目坂から早稲田通りに抜ける通路は近隣の方の散歩道にもなっています。その「散歩道」の傍らに身の丈50cmあまりの観音像が祀られていて、「戦災者供養観音像」と記した石版が置かれています。
太平洋戦争の末期、東京はB-29爆撃機による無差別絨毯爆撃にさらされます。1945年3月11日の東京大空襲では下町を中心に東京の東半分がほぼ焦土となり、10万人を超える死者がでました。その後も空からの焼夷弾と機銃掃射による攻撃が続きますが、5月24日の深夜から始まった空襲は、爆撃機470機を数え、池袋から渋谷に及ぶ山手のほぼ全域を焼き尽くし、新宿区でも、神楽坂や四谷から新宿までがほぼ灰燼となる被害を受けました。当時の記録では、新宿区(四谷・牛込・淀橋の旧三区)の6万3000戸余りの住居が約6800戸に、人口も約40万人から、終戦時には8万人を切るところまで激減しました。日本家屋の焼尽を目的に周到に準備された空襲の凄まじさは、秋尾沙戸子の「ワシントンハイツ」(新潮文庫)に詳述されています。
喜久井町キャンパスも、この空襲によって煉瓦造りの建物を除いて全て焼失したようです。さらに不幸なことには、キャンパス内にあった防空壕で、研究所の補助員数名、さらに近隣から避難してきた住民合わせて300余人が犠牲になりました。戦後しばらく間を置いて喜久井町キャンパスの再建が始まり、1955(昭和30)年には慰霊のための観音像が建立されました。毎年5月25日には観音像前で研究所と喜久井町町内会の共催で慰霊祭が執り行われています。
(創立当時の写真は「早稲田大学理工学術総合研究所」の案内(http://www.wise.sci.waseda.ac.jp/riko_pamphlet.pdf)から拝借しました)