原町散歩 第1回 七月のお散歩

浄輪寺と関孝和のお墓 (東京都新宿区弁天町95)

都営地下鉄大江戸線、牛込柳町駅の前を南北に通じる外苑東通り。それを北に5分ほど歩いた通り沿いの東側、門からいくぶん急な斜面を登るように参道が延びるお寺が、関孝和の実家内山家の菩提寺、浄輪寺です。お寺は1612年の創建といわれ、参道の先を鍵の手に曲がったところに本堂、その前を占めている墓苑の一番奥の辺りに関孝和(1640?~1708)のお墓が、またお墓の隣には、孝和の亡くなった翌年に弟子たちが建立した墓碑があり、新宿区の史跡となっています。

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関孝和は和算の大家として知られ、数列の極限を利用した円周率の計算、行列式による多元方程式の解法など、同時代のニュートン(1643~1727)やライプニッツ(1646~1716)と比肩できる業績を上げました。しかし当時の日本ではこのような高度な数学を必要とする分野は暦学や地理学以外にはほとんどなく、数学の難問を解き競う「芸」として発展することとなりました。関孝和を祖とする「関流」は優秀な弟子に恵まれ、無限級数・三角関数・積分など部分的には世界的レベルに達する成果をあげましたが、大学のような開かれた教育研究機関がない時代で、厳しい師弟関係の中、研究成果を自由に批判しあう場も限られたものだったと思われます。さらに、考えの道筋を厳密な論証によって跡付け、体系化するといった風潮も強くは無かったため、明治になって西洋数学が取り入れられると、和算は徐々に衰退していきました。

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和算が日本で独自の発展を遂げたことは、吉宗の時代に西洋数学が紹介され、その影響を受けた可能性は残っているものの、地理的にはるかに離れた日本とヨーロッパで、人間の高度な精神の営みが、独立して類似の観念を生み出し得たことを示しています。そのいっぽう、どんなに優れた知性も、社会的な基盤あるいは自由な批判や体系化の場が整わないと「ガラパゴス化」してしまうことも示しているようです。

Y. O.