2001年11月のコラム

 このコーナーでは、コトバにまつわるさまざまな事柄を、社員持ち回りで掲載します。特に定まったテーマはありません。投稿も大歓迎です。

 今回はコトバの重層的な意味や色合いを、詩の言語を通して考えます。

  来し方のまことに都忘れかな  後藤 比奈夫

 晩春のひととき、都忘れの花を目にした折の感慨。
 野草と見まがう地味な薄紫の小花。振り返ってみれば、自分のたどってきた道は、目立たず華やかでもなく、まことにこの花のように思われる。
 花の名のように、中央俳壇の栄誉や喧騒から離れ、愚直に俳句の道を信じ追究してきた自分のこれまでの姿勢。そこにこそ「俳句の真実(まこと)」があるように思われる。

 ここには、己の句作の軌跡に対する比奈夫の静かな自負とともに、「都を忘れる」ほどの至福の境地にいる現在の自分があります。いっぽうで、老境に差し掛かった今、「都」を忘れていたことに一抹の後悔を禁じえない「自分」を見つけたのかもしれません。

 「まこと」と「都忘れ」、二つの言葉に込められた多層的な意味の、そのどれが重要というのではなく、音楽のように響きあって、現在の自分のあるがままの姿を表現しているように思われます。

 一つの語彙がもつ多層的な意味や印象、色彩の重なりを「辞書」のようにまとめて、コンピュータ上の多次元意味空間に配置し、眺めてみたい気がします。

 すでに、音楽や絵画の印象をキーワード化する試みが始まっています。近い将来、イメージ(心象)による情報検索が可能になる暁には、このような「ソフトな語彙体系」が作られているに違いありません。このような試みをなさっている方、またご存知の方がおいででしたらぜひご教示ください。
2001.11

文責:秋狂堂