原町散歩 第5回 七月のお散歩

林氏墓地(新宿区北山伏町)

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七月も半ばを過ぎやっと梅雨明け。猛暑の中、夏の雲に誘われ当社から20分ほどの林氏墓地までお散歩です。大江戸線牛込柳町駅から大久保通りを東へ150mほど、通りを北に入った静かな住宅街の中に史跡林氏墓地があります。江戸幕府の教学の最高責任者林羅山とその一族の墓地として、100坪あまりの敷地に81基の儒教式墓石が林立しています。

儒教が日本にもたらされたのは5世紀の頃、仏教が伝来したのとほぼ同じ時期です。奈良時代には律令制のもと、官吏養成と学問研究のために大学寮で教授されましたが、仏教の興隆とともにいったんは衰退していきます。鎌倉時代に入ると南宋から朱子学が学問として伝えられ、「大義名分」の思想が後醍醐天皇の討幕運動などに大きな影響を与えました。その後も儒学は禅宗寺院を中心に研究され、公家や僧の教養としても広く学ばれることになります。

羅山は1583年(天正11)京都に生まれ、長じて藤原惺窩のもとで朱子学を学びました。その俊才ぶりは際立っており、23歳で家康のブレーンに推挙され、江戸幕府成立の後は、秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕えます。「武家諸法度」や「御定書百箇条」の編纂、また豊臣氏を滅ぼすきっかけとなった方広寺の鐘銘「国家安康」の解釈問題への関与など幕政に深く関わり、制度や礼式の整備に力を尽くしました。また教育にも力を注ぎ、朱子学の官学化を通じて身分制度や官僚制度を支える道徳の深化に大きく貢献しました。

林氏墓地からほぼ真東へ、江戸城の外堀に沿って飯田橋、水道橋、御茶ノ水と辿って行くと小一時間で湯島の聖堂に至ります。五代将軍綱吉は儒学振興のため、林家の私邸があった上野忍が岡から湯島に孔子廟と私塾を移して聖堂を建設しました。後には幕府直轄の学校として昌平坂学問所が開設され、教学の中心としての地位を確立します。そして明治維新を経て東京大学の基へと繋がっていきました。儒学そのものも広く浸透し、教育勅語にその思想が取り入れられたように、現代もなお日本の精神生活に大きな影響を与えています。

林氏墓地は、羅山が別邸として幕府から賜った地の一画に作られたものです。羅山の墓も元は上野にあったものが、元禄の頃この地に移されました。現在は新宿区が墓地の調査と管理を行い、毎年11月初めに一般公開されています。

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Y. O.