我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで笑止の蛍
――『閑吟集』
アイアール・アルトの近辺では残念ながら蛍が見られるという噂は聞かないのですが、夏ということで蛍の歌を選んでみました。
『閑吟集』は室町時代の小歌集で、この歌の「笑止」は今とは違って「気の毒な」という意味だそうです。「水」は「見ず」でもあり、好きな人になかなか会うことも出来ず思いを伝えられない恋を、声を立てずに光をともす健気な蛍にたとえる歌……可憐ですね。
しかし、「可憐な恋の歌」では終わりません。ここからが本題。
現代語で「笑止」というと、もっぱら「滑稽だ」という意味になります。昔と今とで意味が変わったという一例かと思いつつ辞書を引いてみると、どうも、そう単純ではありません。
『日本国語大辞典』にはたしかに、「気の毒に感じられること」の語義で、用例としてこの歌が紹介されています。1518年。ところが「ばかばかしくて、笑うべきこと」の語義の用例として、約40年前の1477年に書かれた『史記抄』の用例が紹介されていました。これは『史記』の講義録で、同じ国語辞典によれば、「講義調の用語で記されており、当時の言語生活を知る資料として貴重」とのこと。
さてそうなると、「笑止」という言葉は『閑吟集』の時代には「気の毒な」という意味でも「滑稽な」という意味でも使われていた可能性があります。当時の人にとっては、どのような意味合いだったのでしょうか。この言葉には他に「困ったこと」「恥ずかしいこと」という意味もありますから、困惑する状況で情けないような様子が、優しく見れば「気の毒」、意地悪に見れば「滑稽」という風に多義的だったのかも知れません。
推測ついでに、冒頭の歌も「笑止」を「滑稽」の意味でとって勝手に解釈すると、片思いするばかりで引っ込み思案な自分に対する自嘲のようになります。それはそれで面白い気がするのですが、いかがでしょう。意地悪ですか?