2006年5月のコラム

永田町の言葉、霞ヶ関の言葉

今春の卒業式でも、国歌斉唱の是非が論じられ、また起立斉唱をしない教師、あるいは生徒に「指導」できなかった教師に対する処分が行われました。私自身は国旗国歌の法制化反対に理があると考えていますが、この点はさておき、「言葉づら(文字づら)」からこの問題を少し考えてみたいと思います。

ご承知のように、「国旗及び国歌に関する法律」というのは、日本で一番短い法律で、たった二条からなっています。「第一条第一項 国旗は、日章旗とする。」「第二条第一項 国歌は、君が代とする」。それぞれ第二項が付いていて「日章旗の制式は、別記第一のとおりとする」「君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする」となっていますが、法律として短いことに変わりはありません。たったこれだけの法律がどうしてこれほど問題になるのでしょうか。

1999年8月に成立・施行されたこの法律の審議過程で、「学校の生徒
や教師に強制はしない」という政府答弁があったかと思います。法
制化に反対する人たちは、この答弁を引き出せたことを一定の成果
と考えたようです。彼らはこの言葉を憲法十九条に規定されている
「思想・信条・良心の自由」に重ね合わせて理解したのでしょう。
「君が代を卒業式で歌うかどうかは、個人の思想・信条、あるいは
良心に基づくのであって、文部官僚や教育委員会から強制されるこ
とはない」と勝手に納得してしまったんでしょうね。

法律が制定されると、東京都をはじめとして「教育委員会による強制」がはじまり、気の毒なことに、教育委員会とそれに反対する教師との間の板ばさみになって自殺する校長まで出てしまいました。では、この「強制しない」という答弁はどんな意味を持っていたのでしょうか。諸外国の法律や国際法の観点から見ると、それが自国のものであれ他国のものであれ、国歌や国旗を「敬意を持って厳粛に扱う」ことは当然とされます。日本においても、法律で国旗・国歌と決まった以上、そのように扱うことは「当たり前」になります。行政府そしてその末端の教育委員会においても、民主主義国家で公正に選ばれた議会がそのように決めたのですから、児童生徒に国旗や国歌を「敬意を持って厳粛に扱う」よう指導することは当然で、手を抜いたら国民からお叱りを受けることになります。したがって、「強制はしない」との意は、「君が代が国歌であると規定される以上、『当事者の強制』というような範疇からは脱してしまうので、『強制』という言葉にはなじまない」、あるいは「法律で決まった以上、当然に強制力を持つので、当事者が恣意的に強制できるかどうかを論じても始まらない」というのが、妥当な解釈だと思います。つまるところ、「内心の自由」か「強制か否か」という議論は、まったくかみ合わないことになります。教師の処分に関する裁判がこれから盛んになりますが、「教育委員会の処分は、一部に行き過ぎが見られるもののおおむね妥当」という判決になることが、十分に予想できます。

さて、このような齟齬がなぜ起こったのでしょうか。一つは「国際慣行への無知」。国旗や国歌が他の国々でどのように扱われているのかということを熟知していれば、国歌や国旗として定められた後にどうなっていくかは自明のことといえるでしょう。いま一つは「法律の強制力への無知」。法律で定めれば、死刑も戦争も可能になります。身近な例を挙げれば、赤信号が運転者や歩行者に対して持っている強制力は、あまりにも強いので、ふだんは誰もそれが強制されているとは気づかないほどです。いま一つは「言葉の表面的な意味への盲信」。「強制しない」という言葉が、「内心の自由」を対抗軸とする側に対して、意図的か否かを別にして(それを逆手にとって)、法律の強制力の隠れ蓑の役割を果たしていた点を見抜けなかったことでしょうか。

このように見てくると、言語による表現は、文脈よりももっと広い「社会常識」の上に築かれていることが良く分かります。さらに政治や法律の場では、「永田ムラ」や「霞ヶ関ムラ」の「常識」を元に解釈することが必要で、むしろそれが普通であると考えてよいでしょう。言語が歴史的産物であると同時に、社会的産物であることを忘れると、つまり、自分の常識のみに依存して文字通りに解釈してしまうと、思わぬしっぺ返しを食らうことになります。そういえば、法制化議論の喧しかったころ、「『みんなでじっくり議論する』ということは、『永田町でじっくり取引する』という意味だ」と天野佑吉が『東京新聞』で書いていましたっけ。
でも、今のところ「文字通りの解釈」さえままならない自然言語処理の世界では、無縁な話だったかもしれませんが。

2006.05

文責:秋狂堂