2002年8月のコラム

 似ているということ、同じということ

 昔、アルバイトで応募してきた百人(男女半数ずつ)の人達とかわるがわる会って話しをする機会に恵まれたことがあります。何十人かが終わった頃、一人の若者がやってきたのですが、はて、私はこの若者の顔に見覚えがありました。
「一度訪ねて来た彼と似ているけれども、双子かしらん?」
名前を尋ねると全く同じ名前。「前にもここに来ましたよね」と尋ねると答えは「YES」。どうして、私が彼の顔を百人の中で見分けられたのか、それは企業秘密ですが・・・。
 私達人間という種は(魚類、爬虫類、鳥類、他の哺乳類の種でも興味は尽きませんが)「似ている」「同じ」を一体どうやって判断しているのでしょうか。また、この判断を機械が代わりにやることはできるのでしょうか。

 「似ている」「同じ」と判断すること、と一言で言っても、私達は日常生活の様々な場面で、この判断をしているはずです。
「彼の服、テレビに出てたタレントさんが着てた服と似てる」
「この音楽どこかで聞いたことない?」
「これ書いたの、誰だっけ?、彼女の筆跡じゃない?」
 機械がこれらの疑問に速やかに答えを出してくれるとしたら、おもしろいと思いませんか。

 日本文学の世界には和歌(短歌)というジャンルがあることは皆さんもご存知ですね。五・七・五・七・七、合計三十一文字(みそひともじ)という限られた文字数で自分の思いを伝える文学です。
 では、その技法の一つに「本歌取り」があることはいかがでしょうか。(蛇足。「本歌」って漢字変換できません・・・)ある有名な古い歌(本歌)の一部を引用することで、その本歌の表現した世界全体を自分の和歌に取り込んで、表現の幅を広げる技法のことです。(学校で習った・・・はずですね)
 ですから、この技法を用いて効果をあげるためには、その本歌を他の人が知っていることが大前提で、日本文学の研究の上では「似た歌」を探して、比較、検討することで、新たな発見がある(論文が一本書ける?)ことがあります。
 けれども、多数の歌集の中から似た歌を探すこと、これ自体がそう簡単なことではないことは、「国語っていう科目はいったい何を教えたかったの?」と思っておられる方々にも容易に想像できますよね。そうなんです。従来、日本文学者はそれぞれの個人の知識を土台にして、ひらめきや直観から似た歌を拾い上げてきたのです。

 この作業を機械でできないものだろうか。そのための一つの提案がなされました。(日経サイエンス2002年5月号「類似歌を探せ/デジタル国文学の新展開」)九州大学の竹田正幸氏と純真女子短期大学の福田智子氏の研究内容は各メディアで報道されましたので、目を通された方も多いことでしょう。

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「人を思ふ
心は雁(かり)に
あらねども
雲居(くもゐ)にのみも
なきわたるかな」
(「古今集」五八五番、清原深養父)

「人の親の
心は闇に
あらねども
子を思ふ道に
まどひぬるかな」
(「後撰集」一一〇二番、藤原兼輔)

 こうして二つ並べてみると、「似てる、似てる」と思います。
でも、この比較的有名な二つの歌が「似ている」ことに今まで誰も気付かず、竹田氏が開発した機械(コンピュータですね)で分析してみて初めて、この二つの歌が「似ている」ことがわかったのです。
 では、どうして私達人間や今までの機械が、この二つの歌が「似ている」ことに気が付かなかったのかというと、名詞や動詞などの自立語ではなく、言い回しの部分だけが「似ていた」ためなのです。
 今までの機械は、インターネットの検索のように、和歌を検索する際、自立語(「雁」「なきわたる」等)をキーワードにしていたため、この二つの歌を「似ている」歌としてリスト・アップすることができなかったのです。

 この研究を紹介する新聞記事の一つは、清原深養父が清少納言の曽祖父、藤原兼輔が紫式部の曽祖父であることを前面に出して、三代前からの因縁をおもしろく書いていました。
 これらの技法を応用することで、たくさんある文学界の謎が一つでも多く解き明かされるかもしれない、そのことにひかれてしまいます。
 作者不詳の「浜松中納言物語」の作者が菅原孝標女である可能性に、機械が答えを出す日がくるのでしょうか。ある作家の年代ごとの言い回しの変遷、自立語に限らない「洒落創造機」等が今後私達を楽しませてくれるのかもしれません。

 科学が語学、文学、音楽等と接した時、新たな発見がありました。次に科学は何に接し、何を発見するのでしょう、と想像する今日この頃です。
2002.8

文責:更階 創爾