2005年8月のコラム

誤用の論理

こんにちは。今月のメルマガ担当KAです。
ここ一月ほど翻訳のチェックという作業が私の仕事のかなりの部分
を占めていました。今回はそこからネタを拾ってみたいと思います。

翻訳は日本語から英語へのもので、翻訳者は英語のネイティブ。上
がってきた訳文を1文1文、原文とつき合わせて誤訳や情報の抜けが
ないかチェックするのが私の作業チームの任務です。翻訳者はなか
なか優秀なのですが、「弘法も筆の誤り」でたま~に原文の誤読に
よる誤訳が出てきます。で、しばしばこの誤読のし方が興味深いの
です。日本人だったらまずしないような思いもかけない解釈なんで
すね。1つだけ実例をお見せしましょう(と言っても、文全体を出す
のは差し障りがあるので問題の部分だけですが)。

原文:ありとあらゆる借金を重ねて
英訳:to lump together various types of outstanding loans

英文は「様々な種類の未払いのローンを一つにまとめる」といった
意味になっています。翻訳者は「借金を重ねる」というフレーズを
「借金をまとめて一本化する」という意味だと思ったようですね。
淡々と誤読を指摘するコメントだけ書いて次の文に進みかけたので
すが、どこからこの解釈が出てきたか少し気になったので考えてみ
ることにしました。答えは意外と簡単でした。Aというモノがあって、
その上に別のモノBを置くところ(AにBを重ねる)を想像してみて
ください。シート状のモノを考えていただくといいかもしれません。
さらに、空想の中でAとBの上にさらに別のCを置いて(重ねて)みま
しょう。(何やら面倒そうですが、トランプで不要のカードを一箇
所に捨てる行為を思い浮かべてみてください)以上の動作をその結
果から見ると、複数のモノを一箇所(一かたまり)にまとめる行為
と見なしても間違いではありません。

いかがでしょうか?誤読には誤読の論理があるんですね、しかもかなり自然な。「絵」的に考えれば、「何度も借金をする/色々なところから借金をする」という通常の解釈より「借金を一まとめにする」という誤読の方がピンと来るとさえ言えそうです。それに大げさな表現をすれば、ここには何か創造的な心の働きが感じられます。こういう間違いの発見は地味な翻訳チェックという作業を楽しくしてくれるので大歓迎です。

さて、話は飛びますが言葉の誤りとその裏にある論理や創造性の関
連で以前から興味を持っている現象があります。2つの似た意味を
持つ言い回しが混同により部分的に組み合わされて新たな表現が作
られるという現象です(「混交」と言います)。「侃々諤々(かん
かんがくがく)」と「喧々囂々(けんけんごうごう)」が融合して
できた「喧々諤々(けんけんがくがく)」や「侃々囂々(かんかん
ごうごう)」という誤用がよく引き合いに出されますね。この2つは
誤用と言ってもかなり「普及」しているようでGoogle検索での件数
は以下のようになっています。誤用にもかかわらず正用法に迫る勢
いだということが分ります。もちろん、「言葉の相談室」的なサイ
トで誤用の例としてこれらの表現を取り上げているケースもあるわ
けで、この数字が即純粋な誤用の件数ではありませんが、学術論文
じゃないので細かいことは言わないように。

○侃々諤々(かんかんがくがく) 353,000
○喧々囂々(けんけんごうごう) 299,000
×喧々諤々(けんけんがくがく) 352,000
×侃々囂々(かんかんごうごう) 285,000

さて、この混交という現象で面白いなと思ったのは組み合わせとし
て論理的に可能な表現がすべて同じような「普及度」を持っている
のではないらしいことです。早速データを見てみましょう。上と同
じくGoogle検索での件数です。

○汚名を返上する 882
○名誉を挽回する 603
×汚名を挽回する  707
×名誉を返上する  21

同じ誤用でも「汚名を挽回する」が勢力を拡大しつつあるのに対し
て、「名誉を返上する」は元気がありません。もう一例。

○火蓋が切って落とされた 14,100
○幕が上がった 15,400
×火蓋が上がった 1
×幕が切って落とされた 13,700

こういう誤用の受け入れられ方の違いにはどういう論理があるんで
しょうか?例えば「幕を切って落とす」のは非常に視覚化しやすい
気がします。「火蓋が上がる」ではこうはいきません。「火蓋って
何?」となってしまいますよね。さらに「幕を切って落とす」イメ
ージは落成式のテープカットや除幕式などと重なって、何かの始ま
りの象徴として一見とても自然です(本当は、公演が終わった後困
る)。こういった事情が「幕が切って落とされた」の受け入れられ
やすさの要因の一つかもしれませんね。そんな言葉の舞台裏をあれ
これ推理してみるのも一興かと思います。誤用って言葉の規範・規
則からの逸脱ですが、その逸脱にもある種の規則があったりすると
面白いですね。
2005.08

文責:KA